佐山雅弘のブログ

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2017年2月15日
居酒屋

 ピットインのあと、久々にCRBで飲んだ。トリオと取り巻き総勢7人。混んでいたので、内側にも二三人は座れるコの字カウンターに相席。しばらくするうち、隣のワンテーブルが空いたので移動。また来るかもしれない客のために、半分に寄ろうとすると「どうぞ広くお使いください。」芝居や映画のの人々とも来ることが多く、ということは話もその度に面白いし、ご馳走にもなりっぱなしで、店自体への印象はさほどなかったのだが、自分の座組で来てみると、居心地の良さと過不足のないサービスが心地よく、今まで連れて来てくれていた人々が何かと利用していた理由がよくわかる気がした。
 織原君と福森君という、今をときめく若手と組ませてもらったのが素晴らしい出来映えだった以上に、ちゃんと打ち上げに参加するところが良いですね。若者は打ち上げない通説が広まる中、おじさんはとても嬉しい。
 次の企画や色んなアイデアも無駄(と思える時間)のなかで生まれ、膨らむ。というとこの間見たラッパ屋の芝居(you are me ?)そのままだけど、そういうことって確かにあるんだよなぁ。こちらが年上のことが多くなっているだけに決して強制してはいけないんだけれど、図らずもそんな流れになるのは大歓迎。先日の金沢MKRYの夜も気がつけば6人の美女とジャズについて語り合っていた。どちらの場合も皆さんがさりげなく大事にもてなしてくれているのだ。有難いことである。それにしてもノミニケイション、大好き。お店もとても大事。

2017年1月12日
読書(途中)感想文

 「点」とは「位置があって大きさのないものである」という定義を高校だか中学の数学の授業で聞いた時に随分感激したものだ。それが(比喩として大袈裟になるが)真理の探究に対する感動か、言葉による表現方法の巧みさ、つまりある種文学的な感動なのかは未だにわからないけれど。
 線・長さがあって面積のないもの。面・広さがあって体積のないもの・・・と続くと立体は?大きさがあって何がないかな?次元の順序でいけば次は時間軸なんだが、そこはどう表現されるのだろう?
 と考えているうちに「存在があって質量のないもの・魂」なんて出てきた。
 人間は分子の集合体だから焼くにせよ埋めるにせよ分子原子レベルに分解・再結合で別の色んなもの(の一部)になってゆく。花に、土に。ミミズやヒトに。質量保存の法則からしてすべてが過不足なく使われる。“千の風”にはならんだろうな。風は現象であって分子じゃないから。 “現象であって物質でないもの”に「感動」や「魂」や「心」があるから“ヒトが死んで千の風になる”ことも、まぁあるかも知れない。「“風”の不思議に触れるとき人間は神の存在を感じている」とチック・コリアが”Now He Sings Now He Sobs”のライナーノートに書いていた。
 人間の一部である心や魂は体内のどの部分に存在するのかはわからないが、質量がないならば体が滅んでも存在は残るのか?などと普段とは真逆のことを考えてしまったのは、今読んでいる本の影響だと思い当たった。
 ハン・ガン「少年が来る」
 肉体を失った魂が語る小説。
 “悲惨で読むのはつらいけど向き合わなければいけない物事、読んでおくべき物語”だと思って読み始めたのだが案に相違して、“じっくりゆっくりすらすら”読める。文学として上質に成立しているからだろう。なにがどうなれば文学になるのかは相変わらずわからないけど。
 「良い文章は書けないが悪い文章はわかる」ように「どうすればそうなるかはわからないけれど良い演奏状態にある時はそのことがわかりながら演奏している」から「なにが文学かはわからないが今触れているものが確実に文学であることはわかる」ということも方程式として成立するだろう。
 “じっくりゆっくりすらすら”という現象は不思議なことに矛盾しない。“極度の緊張を伴ったリラックス”という不思議に矛盾しない状態があるように。“極度の緊張を伴ったリラックス”というのは山下洋輔の小説に出てくる演奏場面の描写。

2016年11月3日
踊り好き

 昔からダンスが好きである。見る方。ダンス好きとダンサー好きの混じり具合は判然としないが、踊りのもつ一過性に惹かれているのだろう。
 女好きの延長か?いや。むしろ芸術としてのダンス好きの延長線上に女性崇拝→親睦欲求→女好き(と思われてしまう)ということなのだ、、、などと口説きの言い訳みたいなことをだらだら思いついたりする。
 はっきりしているのは、、、ダンスは素敵!ということだ。

 Can’t Stop Dancin’ 2016 が始まる。30年来のお付き合いの中で、生演奏コーナーに僕のピアノを呼んでくれた光栄。師範たちの見知った顔・顔・顔がいずれも若々しく喜びにあふれていて、体の線たるやまるで(少なく見積もって20年)変わっていない。Especialy 名倉先生はバケモンである。跳躍こそないものの、瞬時の静止から腕が、足が、あまりに優雅に。動いていること、そのものが静止画になっている。

 テンポも演奏の度に微妙に違うし、フレーズはまるでアドリブだし、さぞ踊りにくいだろうに、チームのみんなはにこにこと僕とのコラボを楽しんでくれている(ように見える)。リハーサルの時にストップモーションの場所を長〜く取ってみたら、10人ほどのチームがわらわらと、「佐山さんはそういうことをするからね。みんなそこも楽しんでね」と名倉師匠。楽しいのである。

 「僕のダンス好きは女好きかもしれないけど、男性の踊りにも同じときめきを感じる。という事は」・・・“芸術として好きな方のジャンルだという事に安心してよいのではないか”と続けようとした絶妙のタイミングで「男も好きだった?」と美術の斉木氏。こちらも長い付き合いならではのトラッシュトーク。


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