佐山雅弘のブログ

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2017年2月15日
居酒屋

 ピットインのあと、久々にCRBで飲んだ。トリオと取り巻き総勢7人。混んでいたので、内側にも二三人は座れるコの字カウンターに相席。しばらくするうち、隣のワンテーブルが空いたので移動。また来るかもしれない客のために、半分に寄ろうとすると「どうぞ広くお使いください。」芝居や映画のの人々とも来ることが多く、ということは話もその度に面白いし、ご馳走にもなりっぱなしで、店自体への印象はさほどなかったのだが、自分の座組で来てみると、居心地の良さと過不足のないサービスが心地よく、今まで連れて来てくれていた人々が何かと利用していた理由がよくわかる気がした。
 織原君と福森君という、今をときめく若手と組ませてもらったのが素晴らしい出来映えだった以上に、ちゃんと打ち上げに参加するところが良いですね。若者は打ち上げない通説が広まる中、おじさんはとても嬉しい。
 次の企画や色んなアイデアも無駄(と思える時間)のなかで生まれ、膨らむ。というとこの間見たラッパ屋の芝居(you are me ?)そのままだけど、そういうことって確かにあるんだよなぁ。こちらが年上のことが多くなっているだけに決して強制してはいけないんだけれど、図らずもそんな流れになるのは大歓迎。先日の金沢MKRYの夜も気がつけば6人の美女とジャズについて語り合っていた。どちらの場合も皆さんがさりげなく大事にもてなしてくれているのだ。有難いことである。それにしてもノミニケイション、大好き。お店もとても大事。

2017年1月29日
Tシャツと靴と唇 大村憲司の思い出。

 大村憲司の本が出た。懐かしく眺めているうちにいくつか思い出したエピソード。
Tシャツ:
 ビクターでレコーディングしていた何日目かのこと。
「通りすがりに良いTシャツがあったから値段はいくらか訊くと6万円だってさ。ふざけてるよなぁ」
「そりゃ手が出せませんね」
「買(コ)ぉたがな」
「買(コ)ぉたんですか!?
「しゃぁないやろ、えぇと思てしもたんやから」
途中からいきなり神戸人と尼崎人の関西弁トークになる。標準語で会話にニュアンスが出にくい場合即座に地言葉で語れるところが同郷人(とはいえ細かいヒエラルキーはあるのだが)の良いところ。
 お坊ちゃん、というのではなく芸術的美学。KenjiのプレイをKenjiたらしめている所以を感じた。
靴:
 新しい靴を買っても、一ト月しないうちに甲に凹みが出ますね。あれがイヤでマメにシューキーパーするのだが中々果たせない。
 憲司さんの靴。いつも洒落ているのは当然として、甲の凹みを見たことがないことにある日気がついた。
「どうやって履いているんですか?」
「気をつけて履いているだけさ」
その後何度もトライしてるが駄目である。すぐに買い替えるのかなぁ? とにかく半端ない「お洒落気遣い暮らし」が伺える。
唇:
 関西人は柔らかい食材を好むせいか、あるいはよく喋るせいか、口元がキリリとしていない。ことが多い。唇も厚すぎない程度にふくよかな人が多いのだが、憲司さんの唇は理想のトランペット吹きのような薄め一文字。柳の葉を美しく並べ重ねたよう。おいしいものしか食べていないように思えるので、
「幼少の頃から美食の家庭でしたか ?」
「そんな贅沢な育ちはしていないよ(笑)。ただ、買い食いは絶対に禁止だったな」
そこら辺りは「神戸のボン」なんである。

 「ドラムやフロントの意を汲んで按配良くサポートしている。と見えて実は君が音楽性をリードしているんだよ。自信を持って少し高い位置から全体を引っ張ることを今後心がけなさい」
と教えられた時は嬉しかった。ちょっとした音楽人生の転機だったかもしれない。劣等感とまではいかなくても、人の後から後からついて行く傾向(性格 ? ではないと思うけど)は謙虚な面はあっても美点とは限らないのだ。
 中学の数学教師、二宮先生に「君は成績こそ取り損ねているけど、数学的なセンスは随分あるんだよ」と言われて嬉しかった時と似ていた。自信を持ってみたらその後向上したところも似ている。

2017年1月12日
読書(途中)感想文

 「点」とは「位置があって大きさのないものである」という定義を高校だか中学の数学の授業で聞いた時に随分感激したものだ。それが(比喩として大袈裟になるが)真理の探究に対する感動か、言葉による表現方法の巧みさ、つまりある種文学的な感動なのかは未だにわからないけれど。
 線・長さがあって面積のないもの。面・広さがあって体積のないもの・・・と続くと立体は?大きさがあって何がないかな?次元の順序でいけば次は時間軸なんだが、そこはどう表現されるのだろう?
 と考えているうちに「存在があって質量のないもの・魂」なんて出てきた。
 人間は分子の集合体だから焼くにせよ埋めるにせよ分子原子レベルに分解・再結合で別の色んなもの(の一部)になってゆく。花に、土に。ミミズやヒトに。質量保存の法則からしてすべてが過不足なく使われる。“千の風”にはならんだろうな。風は現象であって分子じゃないから。 “現象であって物質でないもの”に「感動」や「魂」や「心」があるから“ヒトが死んで千の風になる”ことも、まぁあるかも知れない。「“風”の不思議に触れるとき人間は神の存在を感じている」とチック・コリアが”Now He Sings Now He Sobs”のライナーノートに書いていた。
 人間の一部である心や魂は体内のどの部分に存在するのかはわからないが、質量がないならば体が滅んでも存在は残るのか?などと普段とは真逆のことを考えてしまったのは、今読んでいる本の影響だと思い当たった。
 ハン・ガン「少年が来る」
 肉体を失った魂が語る小説。
 “悲惨で読むのはつらいけど向き合わなければいけない物事、読んでおくべき物語”だと思って読み始めたのだが案に相違して、“じっくりゆっくりすらすら”読める。文学として上質に成立しているからだろう。なにがどうなれば文学になるのかは相変わらずわからないけど。
 「良い文章は書けないが悪い文章はわかる」ように「どうすればそうなるかはわからないけれど良い演奏状態にある時はそのことがわかりながら演奏している」から「なにが文学かはわからないが今触れているものが確実に文学であることはわかる」ということも方程式として成立するだろう。
 “じっくりゆっくりすらすら”という現象は不思議なことに矛盾しない。“極度の緊張を伴ったリラックス”という不思議に矛盾しない状態があるように。“極度の緊張を伴ったリラックス”というのは山下洋輔の小説に出てくる演奏場面の描写。


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