佐山雅弘のブログ

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2014年12月11日
差し入れ月旦2

差し入れ月旦 その2 桂枝雀全集より14題
 志の輔は役者的、枝雀はミュージシャン的、と前に書いたがどうしてどうして枝雀師匠は十分役者的突き詰め派であろうと思われる。ただそこを突き抜けて能天気にたどり着いている所がミュージシャン的というか、ミュージシャンの目指すべき境地であるように僕には思える。
 “くしゃみ講釈”の「何ぞ故障が?」“鷺取り”の「十階の身の上(二階に厄介)僕の日常的常套句の出所を改めて知る事にもなった。笑福亭仁鶴の落語で、題名は忘れたが「因業なひとでも死にゃぁホトケ」というのがあった。小学生で聞いたはずだがある種僕の人生観の一端を形作っている。落語に限らず芝居でもそういうことはある。見ている時の感動(または無感動)とは無関係に後日ふっと思い出すセリフやシーンがありますね。部屋に入りながらおこなうコートのたたみ方とか。筋立てからは外れているある種の間投詞の女優の声色とか。そんな体験が良くてまた芝居にいくんじゃなかろうか。
 話を枝雀に戻す。
 マクラに使われた回数が複数だったのがB29爆撃機の体験談。笑わせながら聞いて、そのあとにじっとりと反戦のメッセージが残る・・・
 戦争の悲惨さ、実体験を、声高に叫ぶのではなく柔らかくじんわりと確実に伝え、人の心をつかんで啓蒙する。こんなこと誰が出来るだろうか!?
 僕はサッチモ、ルイ・アームストロングを連想し、ベトナムでの“What A Wonderful World”の映像と今見ている高座がリンク・コンフューズ。関連混乱して行き場の無い涙を流す。笑いながら。
 ちょっと話はそれるが・・・
 原爆を落とされた国民が落とした国民に感動する。何故か。
@ それが文化というものだから。
なんだけど、これは設問に基本的な誤りがあるのだ。僕がサッチモに感動している時、彼我の国籍は入り込む余地がなくなっている。そこで僕なりの正解は
A 国と民とは別の事柄だから
となるのだがどうでしょう?
民を信じて国を信じず・・・となってしまうのもちょっとなぁ。

2014年12月6日
差し入れ月旦

 入院中たくさんの人から色んな差し入れを頂いた。なんとなくそれぞれの人となりが出ているのが面白い。徒然に感想などを綴って見る。
差し入れ月旦 その1 志の輔落語DVD全10巻
 高座ではなく劇場で芝居スタッフによるステージングがユニークな企画。何度か見にいってるのだが、こうして纏めて鑑賞してみるとシンプルなようで実は凝った舞台装置に気づいて驚く。裏地におしゃれをするような江戸っ子的な粋なんだろう。
 新作古典取り混ぜた中に共通するのは“ちょっとした毒”。落語には定期的に訪れる笑いの時間があって、そこが鑑賞の重心だと思い込んでいる節もある。ところが生に接している僕が見落としていたのがこの“毒”だったのだ。この気付きにはカメラワークの良さも与っているだろう。柔和で懐深いあの顔が時に意地悪、実にシニカル、アナーキーな一面を覗かせる。生聴きの時も潜在的にはそういった負の部分をも併せ感じ取って我知らず泣いていたりするのだろう。
 役者という人々と付き合いが広く深くなるにつけ気付いた事がある。人間としての屈折。心の深い所、案外浅くてすぐ届く所、などの差はあっても皆さん何らかの曲折をかかえて向き合っている。憶えていない過去。忘れられぬ過去。不安な今。見えない明日。それは役者のみならず人間誰しも抱えていてそこから文学が生まれる。というよりはその部分が“文学”であって小説や戯曲、落語や芝居はその文学の発露・結果なのだ。
 ジャズミュージシャンには無いかも知れないナ。曲折・懊悩のない人生はあり得ないが彼ら(役者たち)から垣間見える“受け止め”“打ちひしがれ”“立ち向かい”といった素晴らしくも面倒な作業は希薄なんである。突き詰めないんである。
 顔を併せている間中駄洒落を飛ばし、仕事がハネると必ず飲む。そういう場所で役者達の議論が始まったりするのだがバンドマン席はひたすらバカ話。つまり仕事前から仕事中、仕事のあと解散するまでずっと馬鹿なことを言ってるだけということになる。
 とはいえ虐げられた民衆の歴史、とか。高度な理論体系の把握、とか。を素通りしてはジャズミュージシャンは成立しない道理。そいつがどう転んで裏の無い能天気になるか。ここにブルースの秘密が隠れている。音楽自体に浄化作用があるのだな。悪くいえば阿片のような没入作用。
 志の輔は役者的、枝雀はミュージシャン的、と思ったりしたがどうだろう。

次回は枝雀の話から。


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